ひゃっほーい!
実は、このブログを始めることになったきっかけはシンエヴァンゲリオン公開でした。
シンエヴァを劇場で観て

俺もぐずぐずしている場合じゃない!
と勇気をもらえたことでブログ開設に着手できました。結局シンエヴァは公開中に3回映画館で観ました。
もう消してしまいましたが、実はブログ記事第一号は、マリの正体をエヴァのストーリー上でなるべく矛盾がないように解説した内容でした。
今回は、ストーリーやキャラクターとしてのマリの正体ではなく、エヴァンゲリオンという作品のテーマから
マリとはなんだったのか
ということに焦点をあてて考えてみました。そして
エヴァという作品をどう見れば良いのか
ということを庵野監督が伝えたかったメッセージと共に解説します。
マリの正体
正体がないキャラクターというのが真の正体です。
メタ的な視点としては、マリはいままでのエヴァ作品を破壊するために用意されたジョーカーと言えます。
マリは庵野監督の奥さんである安野モヨコ氏そのものです。
レイ(母親)でもないアスカ(二次元ヒロイン)でもないマリ(現実世界の女性)という第三の選択肢でもあります。
キャラクターとしての矛盾
マリというキャラクターに作品内でのつじつまを合わせようとすると、どこかで矛盾が生じるように設定が調整されているとしか考えられません。
ゲンドウの回想シーンや漫画版最終巻の特別付録『夏色のエデン』からわかるように、マリはゲンドウやユイと同年代の冬月ゼミ生だということが分かります。
でも、新劇場版破でマリが初登場した時にはエヴァに乗るのはじめてだと言っていることから、エヴァ仮設5号機に乗るまではエヴァの呪縛にかかっていたとは思えません。
ゲンドウやユイと同学年でありながら破の段階であの年齢はおかしいです。
そしてアスカのことを『ヒメ』と呼ぶところも納得できない点が多いです。
アスカのことを姫と呼ぶということは、アスカの母親であることを示唆している?
→しかし破の段階でシンジやアスカよりも若干年上程度の年齢である
→でもマリはゲンドウやユイと同学年である
→でもでも破の段階でマリの年齢は‥‥
と言った具合に矛盾を解消できない堂々巡りの深みにハマるように設計されています。
さらには、マリはシンエヴァのラストシーンでDSSチョーカーを外して見せるもんだから、謎が深まるばかりばかりです。
またしても堂々巡りの深みにハマってしまいます。
庵野監督と安野夫人
キャラクターの設定ではなく作品そのもののメッセージを表現していると考えれば、ラストシーンのDSSチョーカー外せるじゃん問題に関しても、すんなり理解できます。
シンジくん(庵野監督)につけられたDSSチョーカー(エヴァの呪縛の象徴)を自分でもない、観客でも無い存在に外してもらう必要がありました。
そんな存在がいるとしたら、マリ(庵野監督の奥さん)しかありえません。
だからマリは最後のシーンで外したDSSチョーカーを破壊したり捨たりせずに自分のポケットにしまってしまいます。
シンジくん(庵野監督)がまたエヴァに乗りたい(エヴァという作品を作りたい)と言った時は、いつでもDSSチョーカー(エヴァの呪縛)を与えてあげることができるように。
という比喩表現ともとれます。
ちなみに庵野監督の奥さんの安野モヨコさんは『シュガシュガルーン』や『働きマン』や『おいらん』といった代表作をいくつも持つ人気漫画家です。
庵野監督と同じ『クリエイター』だからこそ、庵野監督の苦しみを深く理解したうえで作品に向き合えるよう支えることができたのだと思います。
安野モヨコさんは庵野監督を題材にした漫画も書いています。
作品に込められたメッセージを読み解く
シンジくんは、散々エヴァに乗るなと言われても、エヴァでやらかしてしまったことはエヴァで落とし前を付けなければいけないと決心し、エヴァに乗ることで全てを終わらせる闘いに挑むことを選びました。
そして、シンジ君は主要キャラ全員を救済しました。
シンジ君は庵野監督そのものです。
エヴァをセカイ系のSFモノだとして解釈すると、庵野監督が作品を通して本当に伝えたかったメッセージをしっかり受け取ることができません。(娯楽作品としての出来も素晴らしいのでセカイ系SFとしても充分に楽しめるところがすごいのですが)
エヴァという作は庵野監督の私小説そのものです。
この点をしっかり押さえてエヴァという作品と向き合うと、庵野さんが伝えたかったことがシンプルに理解できます。
1995年から1996年にかけて、庵野監督はエヴァという作品を生み出して大ヒットさせました。
その反面、深夜アニメでも当たれば商売になるというビジネスモデルを提示してみせたことにより、エヴァっぽいけどテーマが浅くてクオリティが低いアニメ作品が量産されるようになりました。
エヴァのようにSFではなくても、なんとなく主人公がシンジ君のように無気力だったり、いわるゆセカイ系というような、主人公の決断一つで世界の行く末が決まるようなストーリー展開の作品たちです。
しかし、実際はなにがヒットするのかは誰にもわかりません。
だったらたくさん作ってたくさん売り込めばよい。
ということになります。
アニメの大量生産かつ大量消費時代の到来です。
アニメの作り手たち、原画やアニメーターのような様々な人々が消耗品のように使い捨てられる形になってしまいました。
まるでインフィニティーが徘徊する世界のように荒れ果てた世界(労働環境)です。
アニメの作り手たちの間では
『エヴァはたしかにすごい作品だ。だけどエヴァのせいでアニメ業界がめちゃくちゃになってしまった。』
という認識が定着しました。
これはシンエヴァのなかでも鈴原サクラの
「シンジさんは恩人だけど仇」
というセリフが全てを表しています。
要は『庵野監督はアニメ界の恩人であり仇』なんです。
だからこそ、その被害者たち(エヴァの作り手以外の人々から)は
「エヴァに乗らんといてくださいよ。」
「あなたはもう、何もしないで」
つまりは、庵野はもうエヴァという作品に関わるな!と言われるハメになってしまったということです。
それでも庵野監督はエヴァという作品に真正面から向かい合うことを決意して、全てを綺麗に終わらせることを選んでくれました。
ビジネスのことを考えればシンエヴァをあそこまで完璧に終わらせずに、続編を作ることだってできたはずです。
それでも庵野監督はエヴァという作品に真正面に向かい合って、しっかり終わらせることを選びました。
庵野監督は自分の作った自分の作品に対して自分の中で完全にケリをつけることができました。
しかし、観客はエヴァという作品が終わることを許してくれません。
そこで必要になるのが『マリというキャラクター』だったのです。
さようなら、全てのエヴァンゲリオン
なぜどれだけ考えてもマリの正体がわからないのか?
答えは簡単で、マリは正体がハッキリしないように設定されているキャラクターだからです。
『答えが無いのが答え』
私にはこれしか考えられません。
答えが無いものに関していつまでも考え続けてしまうということは、それこそエヴァの呪縛に囚われているようなものです。
庵野監督はシンエヴァという作品を作り上げることで、エヴァという作品から卒業しました。
僕には、庵野監督がそう言っているように思えてなりません。
シンエヴァを観終わったことで良くも悪くも僕はエヴァンゲリオンという作品を『卒業』することができました。(劇場で3回観ました)
庵野監督はエヴァという作品を通して一つのことを貫き通すことの重要さを教えてくれました。
自分の中でエヴァという作品を咀嚼して、なんとか理解したつもりになって、あらためてシンエヴァのキャッチコピーを見ると、本当によく考えられた一文だなと感心してしまいます。
さようなら、
全てのエヴァンゲリオン。
あなたはエヴァを卒業できましたか?
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