今回紹介させていただく名言はこちら!
言って聞かせて
させてみて
誉めてやらねば
人は動かじ
言った人
(やまもと いそろく)
どんな人?
山本五十六(やまもと いそろく、1884年4月4日 – 1943年4月18日)は、日本の海軍軍人であり、最終階級は元帥海軍大将です。連合艦隊司令長官として、太平洋戦争初期の作戦を指揮しました。
特徴・業績
大日本帝国海軍 第26、27代連合艦隊司令長官。戦死時の階級は海軍大将で、死後元師に特進しました。明朗な性格で、部下や同僚から非常に高い信頼を寄せられた人物でした。山本元師は当時の欧米事情にも詳しく、日独伊三国軍事同盟や日米開戦に最後まで反対していました。
主な業績
- 海軍航空の発展への貢献: 早くから航空戦力の重要性を認識し、海軍航空の育成・強化に尽力しました。航空母艦を中心とした艦隊運用を主張し、日本海軍の航空戦力近代化に大きく貢献しました。
- 真珠湾攻撃の指揮: 太平洋戦争の開戦劈頭、連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃を指揮しました。この奇襲攻撃は、アメリカ太平洋艦隊に大きな損害を与え、開戦初期の日本の優位を確立する一因となりました。
- 航空主兵主義の提唱: 戦艦艦隊から航空機艦隊への転換を主張しました。「巨艦を造っても浮沈はあり得ない。砲戦が行われる前に飛行機の攻撃により撃破せられる」といった言葉を残しています。
- 日独伊三国同盟への反対: 海軍次官時代には、海軍大臣米内光政を支え、日本の国益を損なうとして日独伊三国同盟に断固として反対しました。
- 人材育成: 「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」という言葉に代表されるように、部下を育成することの重要性を説きました。
特徴
- 先見性と戦略眼: 世界情勢や科学技術の進歩を冷静に分析し、将来を見据えた戦略を構想する能力に長けていました。特に、アメリカの国力を正確に認識しており、対米戦争には慎重な姿勢を示していました。
- 大胆な発想と実行力: 真珠湾攻撃のような、それまでの常識を覆す大胆な作戦を立案・実行する力がありました。
- 国際感覚: アメリカ駐在経験が長く、国際情勢やアメリカの文化・国情に対する深い理解を持っていました。
- 部下からの信頼: 温厚な人柄で部下からの信頼が厚く、人材育成にも熱心でした。
- 平和主義的な側面: アメリカとの戦争を避けるべきと考えており、開戦には最後まで反対していました。しかし、開戦が決定すると、軍人として職務を全うしました。
山本五十六は、卓越した戦略家であり、日本海軍の航空戦力発展に大きく貢献した一方で、その指揮した真珠湾攻撃は、その後の太平洋戦争の悲劇を招いたという評価もあります。彼の功績と特徴は、多角的な視点から議論されています。
価値観よりも本質を見る
この言葉の何よりもすごいことは、内容もさることながら『言った時期』ではないかと思います。
時代背景としては第二次世界大戦真っただ中、日本に限らず世界中の価値観が現代とは全く異なってた時期でした。
部下や子供といった自分よりも目下の存在に対して教育を実施する際には、体罰は当然のこととして認識されていました。
理屈よりも精神論が優先される時代です。
サイエンスやロジックは軽視されて、とにかく「気合と根性で踏ん張り続ければ何とかなる!」「成果が上がらないのは気合が足りないからだ」といったような価値観が重要視される時代でした。
戦闘機のパイロットたちは、一週間を「月月火水木金金」と呼び、1日も休むことなく過酷な訓練に耐え忍び、洗浄へと駆り出されて行っていた時代です。
そんな価値観のなか、時代特有の価値観に流されず、冷静かつ俯瞰的に物事の本質をとらえていたからこそ
「やってみせ 言って聞かせて させてみて 誉めてやらねば 人は動かじ」
という名言を残せたのではないかと思います。
アメリカ留学時代
山本五十六は戦前に年体位でアメリカに留学しています。その際には「ナショナルジオグラフィック」を購読していたそうです。帰国後も購読の習慣は続き、最終的には自宅の書斎の本棚の半分は「ナショナルジオグラフィック」だったそうです。
留学中にアメリカ国内を視察し、油田や自動車産業、飛行機産業とそのサプライチェーンに強い印象を受けています。日本では専売指定されていた砂糖と塩でさえ、アメリカではともにプラントで大量生産され、市場で大量消費されていることをワシントンD.C.の喫茶店で身をもって知りました。当時の米国の生産および流通の圧倒的な差に衝撃を受けています。
真珠湾攻撃
太平洋戦争の開戦に向けて、国内では準備が着々と進められていきました。
とはいえ軍部の立てる作戦の内容はお世辞にも綿密とはいいがたく、日清日露戦争の時のように大型戦艦同士の戦いで勝てばOK!くらいのノリだったようです。
とはいえ日清日露戦争はこの時点ですでに約40年前の戦争でした。(日清戦争は日本と清国(中国)との間で、1894年から1895年にかけて行われました。一方、日露戦争は日本とロシアとの間で、1904年から1905年にかけて行われました。)
戦争のトレンドはすでに戦闘機(飛行機)による「空」の制空権を以下に制圧するかという流れへ移行しつつありました。それでもなお、当時の軍部は、大型戦艦、つまり船による「海」を制すれば後はどうにでもなるという古い価値観のまま、アップデートできていなかったのです。
※ちなみに当時は日本陸軍が国内の政治を掌握していました。独裁政治と軍事力が掛け合わさった、軍国主義というやつですね。(ドイツのナチスも同じ)
米国留学経験もあり常に情報をアップデートし続けている山本五十六の目には、国外の新しい情報には目を向けず、過去の成功例にとらわれ続ける軍部はどのように映ったのでしょうか。
たぶん、「こりゃあかん、このままアメリカと戦争になったら確実に負ける・・・!」と思ったことでしょう。
そもそも山本五十六はアメリカとの戦争は反対していました。アメリカについて学び続け、留学という形で国力を実際に目の当たりにしているからこそ、冷静に日本とアメリカの実力の差を比べることができていたのでしょう。
所説ありますが、山本五十六が指揮した(指揮せざるを得なかった)真珠湾攻撃の目的は「太平洋戦争における日本軍の南方作戦へのアメリカの介入を防ぎ、アメリカ太平洋艦隊の戦意を挫くこと」です。つまり奇襲によって一つの拠点をとことんたたくことで戦意を喪失させることが目的でした。
山本五十六が真珠湾攻撃に込めた意図としては
「日本とアメリカでは比べ物にならないくらいアメリカの方が国力が上だ。だが軍部の移行に背くことはできない。となれば戦争になる『前』に短期で決着をつけるしかない!一点集中でアメリカの拠点を徹底的にたたく!」
といった感じだったはずです。
山本五十六が立てた作戦では真珠湾の徹底的な壊滅を目的としていました。真珠湾を完全にたたくことで相手の戦意を喪失し、戦争を現場での戦争から政治家同士の交渉の場へと移そうと試みていたのです。
しかし軍部は山本五十六の作戦の意図がしっかりと理解できていませんでした。中途半端に真珠湾を攻撃して太平洋上に待機している母艦に帰還してきた戦闘機に対して、再度攻撃を仕掛けるよう指示を出しませんでした。奇襲作戦が成功したこと自体に満足してしまい。意気揚々と本国へ帰ってきてしまいます。
結果、真珠湾は完全な壊滅には至らず、逆にアメリカ国内で戦争への気運を高めることになり。日本とアメリカは長期的な戦争へと突入していくことになります。
真珠湾攻撃後、日本は米国の太平洋艦隊の空母を逃がしてしまうなど、作戦を全うできず、戦争は長期化しました。真珠湾攻撃は、太平洋戦争の開戦のきっかけとなり、日本に大きな犠牲をもたらしました。
長期化した戦争のただなか、山本五十六は拠点から拠点(島から島)へ移動する際の飛行中に米軍機に撃墜され戦死しました。
まとめ
今回は太平洋戦争のきっかけともなった真珠湾攻撃を指揮した山本五十六の名言を紹介させていただきました。
言って聞かせて
させてみて
誉めてやらねば
人は動かじ
私は決して右寄りの価値観を重要視しているわけではありません。個人的には常にニュートラルでいたいと常々思っています。
ただ、今この時代、わたしたちが戦時中と比べたら何不自由のない生活ができているのは、当時の戦争で命を落としていった先人たちのおかげであることを否定できる人は、そういないでしょう。
激動の時代、部下や目下の人をいたわったりするようなそぶりを見せるだけでも異端として奇異の目を向けられたことは想像に難くありません。それでもなお、山本五十六の「やってみせ・・・」という言葉が残っているということは、彼は当時の価値観よりも自身の信念、ないし本質を大事にしていたということが分かります。
戦後80年。考えられないくらい私たちの暮らしは豊かになりました。今後AIをはじめとするテクノロジーの発展は止まることはないでしょう。
技術が発展すると価値観も変わっていきます。そんななか、山本五十六のように時代の価値観は尊重しつつも、最終的には自分の信じる本質を大事にしていける人になりたいものです。
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