今回は仏教についてのお話です。
いきなり結論です
・『無』はそこになにも存在しない状態
・『空』は沸き起こる無数の感情をありのままに受け入れることができる状態
仏教の目的
仏教の究極の目的は『悟りの境地に達して仏になる』ことです。
いやいや『無』と『空』の違いが知りたいのになんで仏教の目的から理解しなきゃいけないんだよ!
という声が聞こえてきそうですが、『無』と『空』の違いを理解するためには仏教の目的から順を追って理解するのが一番早いんです。ちょっと我慢して読んでいただければと思います。
さて、仏教の目的は『悟りの境地に達して仏になる』ことですが、私は、仏になれるかどうかの部分は正直どうでもいいと思っています。
なぜなら、悟りの境地に達することが目的の本質で、仏かどうかは悟りを開いているかどうかによるからです。
さて、出てきました、この『悟り』というキーワードですが、そもそもそれがどんな状態かご存知でしょうか?
悟りは英語でenlightenment なのですが、言葉の由来は『消火』なのだそうです。
※サピエンス全史下巻より
それでは一体なにを『消火』するのでしょうか?
ここで、消火するべきは『感情』だ、と勘違いしてしまうと、悟り=感情が発生しない状態=無となってしまいます。
しかしこれは間違いです。
消火するべきは『感情』ではなく、発生してくる無数の感情に対する『自分の反応』です。
無我と感情の関係
無我という言葉があるのはご存知でしょうか?『無』と『空』の違いを理解するためにこの言葉は切っても切り離せません。
我(われ=自分)を無くすと書いて無我。
字面から意味を読み取るとこうなります。
では我(われ=自分)とはなんでしょうか?
自分から沸き起こる感情が自分なのだとしたら、全く感情が発生することがなければ、我は無となります。
けどこれって何かおかしくないですか?
『自分』から発生している『感情』と言っている時点で、自分と感情は別のものです。
感情とはあくまでも脳内での化学反応の結果に過ぎません。感情の発生を止めることは脳の構造上不可能なのです。
脳細胞であるニューロンが接合部であるシナプスを介して、信号となる様々な種類のホルモンを互いに伝達することによって、感情が発生します。そう、感情とは現象であり、結果なのです。
しかし『無』とはそこになにも存在していないことを意味します。
帰納法的に解釈するならば
②なぜなら何か(感情)を発生させる原因(自分)がない
③原因(自分)がないということは無である。
となります。なんと、自分自身が消えてしまいました!
たしかに、いっさいの感情を感じることがなければ人生のあらゆる苦しみから解放されるかもしれません。しかし、あらゆる感情を感じないということは、苦しみとは逆に、あらゆる喜びや快感といった感情も感じないということです。
これって生きてるって言えるのでしょうか?
仏教が今もなお残っていることからもわかるように、根源的な教えが人間性の放棄であるとは、私は思えません。
無我の正体
では、無我についてあらためて考え直してみましょう。
我(われ=自分)とは『認識するもの』です。
あなたはいま私の書いた文章を読んでいますので、日本語の文章を『認識』しています。そして評価、判断します。
目で見た景色、出来事、嗅いだ香り、聴いた音楽、触った感触、さっき食べた食事の味を、あなたはあなたの五感をフルに活用して『認識』しています。
そして、評価し、判断しています。
五感そのものがあなたではありません。感情も現象でありあなたではありません。
それらを『認識するもの』それがあなたです。
ちなみに、仏教の教えをさらに踏み込んで説明しようとすると、『認識』している自分を『認識』することがでがるので、理屈上はこの『認識』に終わりはありません。
これらを総括して、自分とは『にあらずもの』という言い方をします。
この部分をより深く説明しようとすると、それだけで一つの記事になってしまうのでまた別の機会にまわします。
我(われ=自分)とは、『認識するもの』であると定義することができました。
であれば、無我とは、『認識するものを無くす』となります。
これは、『認識するもの』そのものをなくすのではなく、認識することによって判断し、評価するというプロセスを放棄するという意味だと、私は解釈しています。
私たちは生きている限り、五感を持っています。五感を意識的にオンオフすることはできません。
意識的にコントロールできないことを意識だけでコントロールするのは不可能です。
雨や風のような自然現象や重力のような物理現象を自分の力でコントロールしようとする人はいないでしょう。
つまり五感のオンオフはコントロールできないので、同義である『認識するもの』も意識的にオンオフすることはできません。感情の発生は止めることができず、それを認識するあなた自身を意識してオフにすることはできません。
だとしたら、意識的にオフにすること、止めることができるのは、認識した『後』のプロセスです。
すなわち『評価』と『判断』です。
評価と判断をオフにするのが『空』
人は、自分より幸せそうな人を認識した時に、その人のことを、もしくは自分自身を『評価』して、次に何をするべきか、はたまた何もしないべきかを『判断』します。
けれども、一度立ち止まって考えてみてください。
自分より幸せそうな人を認識してしまうことは止めることができませんが、『評価』して『判断』する必要はあるのでしょうか?ヒトは世界に約70億人存在しており、上を見ればキリがなく、下もまた然りです。
しかし、何を持ってして上と下なのでしょうか?
年収?身長?学歴?資産?人種?性別?年齢?etc. …
自分と他人を比較するための定規は無数に存在しています。
しかし、あなたはあなたです。他人は他人です。
あなたが満足するには、自分で自分に満足するしかないのです。
つまり、何かを認識したことによって発生した感情を、評価して判断するのではなく、認識までで止めるのです。そこに良いも悪いも、上も下も、右も左もありません。
ただありのままに、受け入れるのです。
そうすれば、認識したものをひとつひとつ評価、判断しなければならない無限のループから抜け出すことができます。
これが『空』の考え方です。
無我という言葉の我(われ=自分)を無くす。とは
『認識したものをありのままに受け止め、評価も判断もしないこと』です。
『無』と『空』の違いをお分かりいただけたでしょうか?
無も空も字面だけだと、『そこになにも存在していない』イメージですが、ここまで読んでいただいたことで二つの違いが明確になったと思います。
概念を理解したうえで自分の軸を持つ
私は『空』の概念を理解してできたつもりではいますが、意図的に使う時と使わない時を分けています。思い出したくないことを無意識に思い出してしまった時なんかは、『空』の考え方は非常に役に立ちます。
負の感情に呑み込まれ、それを評価して判断したくなる衝動を素早く『消火』することができます。
私がそれらに良し悪しの評価をし、何をするかを判断する必要は全くないのです。
逆に、家族や友人といった親しい人たちとコミュニケーションをとる場合は、『空』の考え方はマイナスに働いてしまう場合があります。
どんな話題に対しても、ただただ受け止め、評価もせず判断もしない。
これでは親しい人同士のコミュニケーションというよりは、精神科医と患者のカウンセリングのようなものです。
仏教や、キリスト教のような何千年も脈々と受け継がれてきた教えは、人間とは何かを考える上で根源的な部分まで鋭く踏み込んでいて、時間を割き、学ぶ価値のあるものです。
ただ、自分の軸を持たずに、例えば仏教がそう言っているからという理由でどんな時、場合でも盲目的に従うのは、ちょっと違うのかなと思います。それを知り、学び、自分なりに理解したうえで『どう使う』か、までを考えることが重要なのだと思います。
生まれた時から親が仏教徒だったので私も仏教徒なのですが、つい最近まで自分の宗派すら知らないくらい、仏教というか宗教全般に無頓着でした。
クリスマスはキリストの誕生日を祝い、年が明けたら神社に行き、実家に帰れば仏壇に手を合わせる。
自分はなんとなーく仏教徒らしいということだけは分かっているけど、それによる影響は良くも悪くも全くないから、日々の生活で宗教について考えを巡らせる時間はゼロに等しい。
私に限らず、一般的な日本人ってそんな感じじゃないでしょうか?
なぜ、日本人が仏教と神道の歴史を知らないのか。
しかし、なぜそれらは滅びずに『習慣』のみが残っているのか。
この問いに対しては自分なりの答えを持っているのですが、今回のテーマから逸れるので別の記事で書きます。なんにせよ、私はここ最近で急激に宗教全般に興味を持ち、学び、特に仏教は面白いと思うようになりました。
ずっと長い期間のこっているモノには残っているなりの根拠があります。仏教にかぎらず、哲学全般は本当に面白いです!
今回参考にした書籍一覧
『いちばんやさしい仏教とお経の本』
『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』
『日本仏教史 思想史としてのアプローチ』
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