この記事の概要
〇中田敦彦さんの半生を紹介
〇藤森慎吾さんの半生を紹介
〇オリエンタルラジオの歴史を紹介
〇なぜオリエンタルラジオは解散しないのかを分析
中田敦彦さんと藤森慎吾さんの現在は完全に独立して収入の柱を確立できているふたりですが、お笑いコンビのオリエンタルラジオであるというスタンスは絶対に変えません。どんなに活躍の場が変わっても、お互いのビジネスに接点がなくなっても、オリエンタルラジオというコンビを解消するつもりはないようです。
なぜでしょうか?
それは、中田敦彦さんと藤森慎吾さんは、互いに相手のことを深く理解し、尊敬しあい、いつまでも良きライバル同士であるという関係だからです。
彼らが出会う前、そして出会った後から現在に至るまでの歴史を知ることで「オリエンタルラジオはこれから先も解散はしないだろう」と確信を持てます。
中田敦彦さんも藤森慎吾さんも、それぞれ半生を語った書籍を出版されています。この記事ではこのふたつの書籍から中田敦彦さんと藤森慎吾さんの関係性を読み解き、なぜ2人はオリエンタルラジオというコンビを解散しないのかという理由をまとめました。
中田敦彦さんであれば
『幸福論「しくじり」の哲学』
藤森慎吾さんであれば
『PRIDELESS(プライドレス) 受け入れるが正解』
2人の関係性を分析することで、良きパートナーとは何か?ということを深く考えるきっかけにもなります。
オリラジについてのおさらい
オリエンタルラジオというお笑いコンビは、ボケの敦彦さんとツッコミの藤森慎吾さんからなる二人組です。とはいえ、オリエンタルラジオをお笑いコンビという一言で片づけることはできません。2021年現在、オリエンタルラジオは長年所属していた大手お笑い事務所の吉本興業から独立し、それぞ独立した事務所を設けてご自身の強みを活かしたビジネスを軸に別々に活動しています。
中田敦彦さんは完全にテレビ業界から身を引き、類まれなる要約能力とプレゼン能力を活かして教育系Youtuberとして大変活躍されています。企画力にも非常に優れていて、日本最大級のオンラインサロンを運営されていたり、アパレルビジネスを展開したり、カードゲームを発売したりと、ビジネスで大成功されています。しかも家族と共にシンガポールに移住しています。
藤森慎吾さんはご自身の得意とされるコミュニケーションスキルを活かして、テレビ番組でいくつもレギュラーを持つ超売れっ子タレントとしてご活躍されています。もともとは吉本興業のタレントとして出演されていた番組でしたが、事務所を退所されてからもレギュラーから降板させられることはなく、そのまま出演されています。中田敦彦さんのチャンネルほどの登録者数ではありませんが、藤森さんもYoutubeでご自身のチャンネルを運営されていて、かなり成功している部類です。
中田敦彦さんのクロニクル
佐賀県生まれ、大阪府高槻市/山口県山口市育ち。3つ下の弟さんを持つ長男です。ちなみに弟さんはダンス&ボーカルグループのRADIO FISHのめんばーであるFISH BOYとして活躍されています。
中田さんは自分のことを「どこにいようが自分は自分」だと強く意識されているとのことです。その理由としては、お父さんが損害保険会社に勤めていたために転勤が多く、一家で大阪、山口、東京へとどんどん移り住んだことが大きく影響しているようです。
転校生として新しい学校の流儀に自分を合わせていかないとやっていけない反面、自分の中に芯を持たなければ自分とは何なのかというアイデンティティを保てない面もあるといっています。
山口県にいた小学生のころはJリーグがスタートした時期だったこともあり、サッカーを初めてレギュラーを獲得するようなスポーツ少年だったようです。生徒会長や運動会での応援団長を務めるような「目立つ子」だったそうです。しかし、東京へと転校して過ごした中学時代では一転、地味な生徒になっていました。
中心人物の地位から落ちてしまったというよりは、自分の興味がスポーツから勉強に移って、意識的にポジションを変えただけだと言っています。小学校から中学校にあがるにあたって、思春期を迎えた中田さんは自分の将来について考えてみたそうです。
現在活躍されている教育系Youtubeのメインエンジンとなっている驚異的なまでの分析力の片りんがこの時にも発揮されました。中田さんは、中学生にして「このままスポーツを続けていても意味はない。強いて得意なものは何かといえば勉強だ。だったらやっただけの成果が出る分かりやすい勉強に全力で打ち込もう」と決意したそうです。
中学校に入学してからというものの勉強一筋だった中田さんは東京でも有数の進学校で高校生活を送ることになります。塾にも通い、目指すはもちろん東京大学。しかも法学部でなければいけないと固く心に誓っていました。
結果としては、中田さんは東京大学に通っていません。慶応義塾大学に入学されています。理由は恋でした。同じ高校の女子生徒を好きになり、のめりこむ対象が勉強からそちらに移ってしまったのだそうです。
学校内でもよく知られていたかわいい子だったので、勉強にしか目を向けていなかった中田さんは何とか仲良くなろうと考え、コミュニケーション能力の向上を図りました。
何をしたのかと言えば、テレビのバラエティ番組やトーク番組を研究しつくしたのです。めぼしい番組を全て予約して繰り返して視聴し、話の振り方や相槌の打ち方、話題の選択と広げ方、そして笑いというものをどう生み出しているのか・・・。そういったことをチェックし、メモを取り、ノートにまとめていきました。対象こそ違えどやっていることはまるっきり受験勉強的なものでした。
研究を続けていく中で想いはつのり、高校2年の冬に告白するもあえなく撃沈。気づいたころには東大に入学する夢も閉じかけていました。
とはいえ一定の学力はあったため、慶應義塾大学に入学し、大好きになったお笑いを自分でもやってみたいと思うようになり、学園祭で友人と漫才を披露して大盛況。
中田さんはもっとお笑いをやりたいと思うようになるが友人は満足してしまい「誰かと漫才をやりたいけど良い相方がいない」と思っているところで、バイト先の同僚である藤森さんと出会うことになります。
藤森慎吾さんのクロニクル
長野県諏訪市に生まれる。藤森さんは6歳上の兄と4歳上の姉に続く末っ子。小学校のころからだんだんとヤンチャになっていった。このころには女の子と話そうとすると異様なほどドキドキしてしまって顔も真っ赤になってしまうような、素朴でシャイで、典型的な「田舎の子」だったと自信を振り返っています。
「チャラ男」と呼ばれるチャラチャラしたキャラとか番組のロケで女の子たちと楽しそうにロケに行くといった振る舞いは芸人になってからようやく身につけた能力。
小学校の頃はクラスの中心人物だったけど中学になると他校の小学校からいろんな意味で目立つ人が入ってくる。リーダータイプ、筋金入りのヤンキー、やたらオシャレなやつ。藤森さんはそんな個性的な人たちを押しのけて自分が一番になってやろう!とは全く思わないタイプで、「こいつはなにか持ってるな」という人を見つけてはスッと近づいて仲良くなることを得意としていました。
というのも藤森さんは相手のことを本当にすごいと思っているので、素直な賞賛になり、相手も悪い気をしないのではないかと当時を振り返っています。
藤森さんは中学の途中から父親の仕事の関係で香港に住む事になった期間がありました。現地の日本学校に通ったことで日本各地の中学生と知り合う事になりました。東京から来ているマセててオシャレな人たちのグループに飛び込み、自分をイチから染め直そうとあれこれ手を出しました。
オシャレに励み、スケボーを始め、バンドをはじめてみた。しかしどれも器用にこなせずギターを担当したライブでは仲間の足を引っ張るばかり。お調子者でムードメーカーだからバンドメンバーには選ばれるけど自分の楽器から音が出るとサウンドが壊れる、だから藤森さんのギターにつなげたアンプの電源はこっそりオフになっている‥‥というような立場だったそうです。
結局「習得した!」都胸を張っていえるものはなにもないままの学生時代だったと振り返っている。
モテたい、遊びたい!の一心で海外入試枠制度を使って山梨県甲府の高校に入学します。理由は至ってシンプルで「地元よりも少しでも栄えた土地へいきたい!」進学はそのための手段としか考えていなかったとのこと。
ここでも、すぐに仲良くなれるという特技をいかしてクラスメートの中心人物と良好な関係を築くも、彼らがラグビー部に入部するという誤算が発覚します。体の線が細いタイプの藤森さんが向いているとは言い難いスポーツだったけど、彼らのことならなんでも真似してついていこうと心にめていたためラグビー部に入部!しかしまったく練習について行けずに結局3ヶ月で退部することに。
高校生活の早い段階で挫折を味わった事によってそこから全般的にあまりしっくり来なくなり無気力になってしまたったのだそうです。一度は高校を辞めようかと真剣に悩んだ時期もあったとのこと。
しかし「モテたい」という原動力を軸に、当時放映されていた木村拓哉主演の『ビューティフルライフ』に影響を受けた結果、「美容師になりたい!」という夢を持つようになります。両親に打ち明けられた結果「話にならない」と一蹴されるも東京への憧れは消えず「やっぱり高校にはしっかり通って受験勉強に打ち込もう」と決意します。
なんと髪型を丸刈りにし、1日8時間以上を勉強に費やし、休みの日も学校に行って先生に特別授業を依頼。結果としては明治大学経済学部経済学科に合格。とはいえ大学を選択した基準は、自信の学力に合っていることはもちろんのこと『東京の中心である新宿からどれだけ近いか』を絶対的な指標としていたそうです。
ちなみに小学校入学のころから女子に対する極度のシャイを発動させた藤森さんは高校を卒業したら大学に入学するまでの期間もずっと女子に対して苦手意識を持っていたようです。
藤森さんはプライドレスで「人生の大半の機会において僕の原動力はモテたいの一言が全てだ」と語っています。中学のころからそうした思いが高まっていた反面、自分なりのモテる努力をしても一向に結果にはつながらず現実には全然モテなかったのだそうです。
「モテたい!」という強い思いと、「現実ではモテない」という現実。このふたつのねじれが長期化続く事によって、藤森さんの「東京に行けばなにかが変わるはず」という願いは大きくなっていきます。そんな願いがピークに達した時に出会った運命の人が、オリエンタルラジオというお笑いコンビニを組む事になる相方、中田敦彦さんだったのです。
オリエンタルラジオのクロニクル
パーフェクトヒューマンでおなじみの中田敦彦さんとコミュニケーションスキルで競争社会の頂点とも言える芸能界をしたたかに生き残る藤森慎吾さん。出会いは大学時代のバイト先だったために、コンビ結成までは大の親友同士でした。コンビ結成をきっかけにスパルタ教師と生徒のような関係性になったそうです。
藤森さんは、かなり厳しい中田さんの指導にもめげずに食らいついていき、中田さんの作ったネタに藤森さんがアレンジを加えるという試行錯誤を重ねた結果、「武勇伝」というリズム芸を発明。これがかなりのヒットを飛ばして、かなり早い段階で芸能界デビューを果たします。
オリエンタルラジオは所属していた吉本興業から、ナインティナインに続く次の世代のスターとして育成されることを認定されたために、若くしていくつものレギュラー番組を持つことになりました。
バラエティ番組でメインMCとして番組を盛り上げるということは、知識、経験、人脈、テクニック、などなど、かなりの複雑で高等なコミュニケーションスキルが必要とされます。藤森さんと中田さんはポテンシャルが高いとはいえ、当時は大学を卒業したての若者でした。結局、すべての番組が「視聴率」という厳しい現実にさらされて1年以内で打ち切られてしまいます。
その後も、藤森さんが「チャラ男」というキャラを開発して第二のブームを巻き起こしたり、お笑いコンビなのにEDMの音楽とラップに合わせてキレッキレのダンスを披露する(バックダンサー付き)という「パーフェクトヒューマン」で世間をにぎわせます。
ただし、中田さんも藤森さんもいろんなメディアで語っていますが、オリエンタルラジオはずっと人気があったわけではなく、ヒットを飛ばしては人気が低迷していき、もう駄目だと思ったくらいで起死回生の策を生み出してはなんとか生き残ってきたと自覚されているそうです。
実際、「武勇伝」「チャラ男」「パーフェクトヒューマン」の3つのヒットの間には、無人島で山を切り開き、野菜を育てて1年間自給自足生活のロケを実施するも、企画倒れになりテレビではスペシャル版として一回しか放送されなかったり、中田さんはテレビの企画で手相を変えるために海外の医療機関で手のひらにメスを入れたり(てのひらは神経が集中しているため意図的に傷つけるなんて考えられない!とあとから言われたそうです)
そもそもオリエンタルラジオというコンビは、「前言撤回」が座右の銘である中田敦彦さんが色んなアイデアを戦略として練り上げて形にしていくプロセスに、藤森さんが何とか食らいついていくというスタイルが基本のようです。
コンビとしてネタを作るのも、お笑い以外にも売れるためにはどうしたらいいのかを考えるのも中田さんが主導です。藤森さんは長年「やっぱりあっちゃんはすごいな」と感心しつつも、「頼ってばっかりじゃなくて自分なりにいろいろ考えないといけないな」という意識がずっとあったようです。
中田敦彦さんは、タレントで奥様の福田萌さんに言わせれば「教えたがりのオタク」なんだそうです。中田さん本人もこのフレーズを妻から聞いた時に「たしかにそうだ!」と100%納得したとのこと。
そこから、興味のあることをインプットしまくって、長年芸能界で磨き上げてきた話す能力をフルに活用し、誰にでもわかりやすく、面白おかしく伝えるという鉄板の芸風が確立されました。
当初「しくじり先生」というテレビ番組で中田さんは人にモノを教えるのがとてもうまい人だということが世間に認知され、現在はYoutubeで「中田敦彦のYoutube大学」として自身のビジネスの主軸とすることに完全に成功しています。
半面、そんな中田さんの活躍を見ていた藤森さんはどうだったのでしょうか。藤森さんはどんどん自分の道を切り開いていく中田さんに感心しつつも「自分は何をすべきなのか」を完全に理解していました。どこまでも中田さんに頼り切るのではなく、いつまでもコンビでやっていきたいからこそ、お互いに自分の強みを活かしてそれぞれ自立していくべきだという理念を持つようになっていきます。
中田さんと違って藤森さんはずっとテレビで活躍していくことを目標としています。藤森さんはいくつもレギュラー番組を抱えている売れっ子のタレントさんですが、すべての番組がいつまでも続けば最高だと考えているようです。
番組が長く続けば、新しい刺激がなくなってルーチン感覚が増してきますが、それでも良いとのことです。これは現状に甘えているのではなく、自分が何かデカいことを成し遂げるというよりは、組織全体のことをまず第一に考え、番組というプロジェクトがいつまでも成功し続けることを心から望み、全力でコミットすることを決意しているということです。
中田敦彦と藤森慎吾が最高のパートナーである理由
中田さんは膨大な知識のインプットと類まれなる要約&解説能力によって、最強のプレゼンターという立場を確立されました。しかし、これはかなり「内側に向いているエネルギー」だと解釈することができます。
インプット、解釈、要約、プレゼンテーションといった一連の流れの中に、中田さん以外の人が入る余地がありません。もちろん、プレゼンテーションを受け取る人(youtubeの閲覧者)がいてこそ初めて成り立つビジネスですし、動画の編集はチームメンバーに委託しているとのことですが、プレゼンという商品を作り上げるビジネスの核となるプロセスは中田さんの中田さんによる中田さんだけにしかできない作業です。
つまり、中田さんは「自分は内側に向くエネルギーを活用することが得意であることを自覚し、その能力を最大限活かすことに全力を注いでいる」と言えます。ご自身も「バラエティ番組は会話芸だから自分の強みを活かせない。あそこでは一番になれないからやらない」と言っています。
半面、藤森さんは中田さんとは違い、「外側に向くエネルギー」を活用して芸能界を生き延びています。自分でできる範囲の最大限の努力をしたうえで、これは自分では無理だな。と思ったことは、ミュニケーションスキルを最大限に活用して得意な人に頼ることを心掛けているそうです。
全体の和をもっとも重要視し、バラエティ番組なら出演者全員が心地よく参加できている環境の構築に全力を注ぎます。「外側に向くエネルギーを活用することが得意であることを自覚し、その能力を最大限に活かすことに全力を注いでいる。」と言えます。
中田敦彦さんの『幸福論』を読むと、相方である藤森慎吾さんとはどういう人なのかということについてけっこう多くのパートで説明がされています。藤森慎吾さんの『プライドレス』を読んでも、同じくかなり多くのパートで中田敦彦さんについての説明がされています。
このように、中田敦彦さんと藤森慎吾さんは、自身のクロニクルを語る時には必ずと言ってよいほど相方のことを説明します。互いに影響を受け、認め合い、常に良いライバル関係であることが分かります。
このように、オリエンタルラジオのお二人の半生を知ると、実は中田敦彦さんと藤森慎吾さんはとても似ている存在だということに気づきます。お二人とも本当に真面目で努力家です。
ただし『成功の定義』と『成果へのアプローチ』
オリエンタルラジオという祭りに参加しよう!
今回の記事で紹介したのは中田敦彦さんと藤森慎吾さんの幼少期か
『オリエンタルラジオ』は、
『幸福論』と『プライドレス』を読めば今からでも、
ちなみに中田敦彦さんのYouTubeチャンネルでは『
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