【上杉鷹山】「為せば成る」の名言で有名な改革のカリスマが直面した最大の危機【七家騒動編】

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今回は上杉鷹山(うえすぎようざん)が生涯をかけて実施した改革の中でも最大のターニングポイントだった七家騒動についての解説です。

参考にした本はこちらです。


Q.七家騒動とは

A.倹約を徹底させた名君と抵抗勢力の反発
重役の老臣7人(7つの家柄)が主人である上杉鷹山の改革に対して全否定の直訴を行った事件。要はクーデーター

【時期】1773年(安永2年)
【舞台】米沢藩
【藩主】上杉鷹山
【主要人物】千坂高敦、色部照長、須田満主、長尾景明、清野祐秀、芋川正令、平林正在
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上杉鷹山の改革と七家との対立

鷹山の前代の重定の時代では彼ら7人が米沢藩の運営を主に担っていた。しかし当時の米沢藩は弱者をいためつけ組織のトップが甘い汁を吸うためだけに機能していた。

米沢藩の上杉家は豊臣秀吉の時代はかなりの範囲にまたがる150万石の大大名だった。しかし関が原の戦いで西軍について敗れたことによって徳川家康に30万石の米沢藩だけに厳封された。しかし「義」の上杉家は当時の家臣をだれもクビしなかった。つまり30万石の領地で150万石分の家臣を養っていくということだ。これは、企業の規模が5分の1になったのに、従業員を一人もクビにせずに何とかやっていくということだ。

もちろん30万石の領地で150万石分の家臣たちを養えるはずもなく、各々の給料は大幅にカットされた。しかし、上杉家の伝統と格式だけはそのまま維持された。藩の中心である武士たちは、身に着けるモノ、食べるモノ、年中行事などなどのランクをまったく下げなかったのだ。セレブから庶民に転落したのに、いつまでもセレブのように暮らそうとした。

そんなことを続けていたらどうなるのかはだれの目にも明らかで、上杉家はあっという間に借金まみれになった。さらに、幕府の信頼を損なう事件があり、上杉家は30万石の領地を15万石に減らされてしまう。それでも藩政は暮らしぶりを変えなかった。いよいよ財政がもたなくなってきたのが、関ヶ原の戦いから100年以上たったころだった。

前代藩主の重定は危機感を持っていたようで「いっそのこと藩を幕府に返上しようか」などと言ったこともあるが、自身はリーダーとして改革を試みるでもなく、流されるままに生活していた。

そんな米沢藩が潰れるかどうかの瀬戸際で現れたのが上杉鷹山だった。

上杉鷹山は九州の高鍋という小さい大名家から上杉家の婿養子となった人物だったが、自分は上杉家の藩主であるという現実と真向に向き合って全力で改革に取り組んだ。

藩主となった鷹山が初めに行ったのは大倹約だった。藩主の生活を見直し、1500両あった仕切料を209両にまで減額した。自分の生活費をいきなり80%のカットしたということだ。今までは絹の服を着ていたが農民と同じように木綿の服を身につけるようになった。食事は一汁一菜。さらには50人いた奥女中を9人に減らすことで人件費を削った。

極めつけは、19歳になって初の米沢入を果たした時のことだ。初の入城はお祝いに豪華な食事をとるのが一般的だった。「名門」上杉家はとくに伝統と格式を重んじてこういったイベントごとにはとにかく金を使った。しかし鷹山は赤飯と酒だけにして倹約を徹底させている。

もちろん、鷹山ひとりで改革はできない。彼が推し進めた倹約を補佐したのは家臣の竹俣当綱と莅戸善政らである。鷹山の改革を支持するグループは中堅の家臣層に多く、それまでのしきたりとは違った藩政に取り組んだ。上杉鷹山は初めて米沢に入る前に、まずは江戸藩邸で厳選な人選を実施して改革の草案をまとめている。鷹山が19歳になって初めて米沢の地を踏んだ時には、この改革組を藩の運営の重要なポストに置いた。

ハッキリ言って完全にカマしている。

「伝統や格式など知らん。これからは私が正しいと信じる改革の道を貫く」

という意志を態度で示している。当たり前だが伝統と格式と現在の生活におぼれ切っている老臣たちとは意見が合うはずがない。全く新しいやり方を進めようとする上杉鷹山と今までのやり方に固執する重役達は必然的に対立することになる。

改革組が藩の重要なポストに就くということはそれまでそのポストについていた者たちは席を譲らなければいけない。その対象が七家騒動を起こした面々だった。

七家騒動の内容と結末

七家騒動とは過去のやり方に固執する老臣重役7人による改革の完全否定だ。直訴の内容は

「改革が全くうまくいっていない。藩士の大半もこの重役7人の意見に賛成している。直ちに改革を取りやめて藩の運営を重役7人に任せろ」

という内容だった。

改革はうまくいっていない部分も確かにあったが、確実に成果が出てきている部分もあった。あえて改革の悪い部分しか見ないようにしているに過ぎない主観的な主張だった。

藩士の大半も重役7人の意見に賛成しているとあるが、そんなことは大嘘で、直訴の内容は7人の重役とこの場にはいないもう一人の学者によって独断的に作成されたものだった。

改革を取りやめて藩の運営を重役7人に任せろという意見については、鷹山が選出した改革の中心人物たちに自分たちのポストを奪われたことに対する個人的な批判でしかなかった。

要は七家騒動で提出された直訴状は

①客観的な分析からは程遠い主観的な批判

②意見が自分たちではなく藩士全員の総意であるという虚偽の報告

③組織全体を考えずに個人の利益を優先したわがまま

だった。

この直訴状に対して、鷹山は「隠居した重定と話し合う」として、その場での回答を避けようとしたが、7人は「答えをもらうまで帰らない」と更なる強硬姿勢に出た。

※部屋から出ていこうとする上杉鷹山の袴を掴んで離さない暴挙にまで出た

結局、家臣に呼ばれてきた上杉鷹山の養父である重定(上杉家前藩主)が一喝することで急場はしのげたが、とにかく事態の対応を決めなければならない。

鷹山や重定に大目付らも加わって2日にわたり協議を重ねた結果、重臣たちが改革の方向性を否定しなかったため、訴状を提出した7人は厳粛に裁かれることになった。満主と正令は切腹、他の5人は隠居の上、閉門に処されたのである。

普段は温厚でどんなに理不尽なことを言われても怒らず、理性的に相手と対峙する鷹山が、今回に限ってこのような厳しい処分に踏み切ったのにはそれなりの理由がある。

それは重役たちが「この直訴の内容はほとんどの藩士の意見の総意である」と大嘘をかましたことだった。

主人に対して家臣が虚偽の報告をすることがそもそも罰せられてしかないと思う点ではあるが、鷹山は「一番大切にすべき領民を、自分たちの立場が強いのをいいことに、思うように悪用した」ことを重く見たのだと思う。

鷹山にとって一番大事なのは自分のポストでもなく上杉家の権威でもなく、ましては武士の威厳を保つことでもなかった。鷹山にとって一番大事なのは「領民全員が富む」ことだった。そして鷹山はことあるごとにその考えを家臣たちに伝えていた。その考え方を真っ向から踏みにじったのが七家騒動の直訴状だった。

その後、この事件の裏には藁科立沢という儒学者が絡んでおり、彼が首謀者であることが判明した。
立沢は藩内で広く影響力を持つ高名な学者でありながら、鷹山の改革開始後は儒者の職を失うなど主流派とはいえない立場にあった。彼が改革反対派となるには十分な理由といえるだろう。結局立沢は斬首の刑に処されている。

七家騒動後の改革

七家騒動のによって家臣や領民たちは

上杉鷹山はただの温厚な養子領主ではない。やると決めたことはとことん貫く人だ。

ということが完全に理解された。

加えて「老臣7家たちの影響は強く、本当は上杉鷹山の改革に賛同したいのに目立つと7家たちに目を付けられるからおとなしくしていよう・・・。」という家臣たちが一斉に上杉鷹山に賛同しだした。

要は、老臣7家に厳しい処罰を与えることで改革に対して賛成でも反対でもない「中立派」を改革に参加させることに成功した。

上杉鷹山が改革として進めたことは大倹約だけではない。産業改革や教育改革にも取り組んでいる。

米沢はそもそも米を育てることに向いている土地とは言えなかったが当時は年貢が米だったので全国どこでも米を育てるのがフツウだった。しかし鷹山は、風土にあった農作物を植えよう。と提案した。

さらに、育てた植物を原料として他藩に売るのではなく、米沢藩内で加工して製品に仕上げるまでのシステムを構築した。例えば絹の着物がそうだ。領民に製品を仕上げさせる能力を会得してもらうために、プロの職人を高額の給料で雇っている。

教育にも力を入れている。長い間閉鎖されていた藩の学校を復興した。鷹山みずからが江戸で世話になった有名な儒学者を講師として米沢藩に招いている。もちろんこれにも高額な経費が掛かる。

鷹山は『浪費』に関してはとことん倹約を進めたが、地域産業や人々の教育のための『投資』には惜しみなく金を使った。

七家騒動でボトルネックとなっている人物を適切に処断し、倹約だけではない「藩の領民全員が富む」ための改革を推し進めていくことで、改革はだんだんと軌道に乗り始めた。

生涯を通して改革を貫いた上杉鷹山

鷹山は早くも35歳で引退している。実は35歳で隠居するまでは治憲(はるのり)という名前で鷹山(ようざん)になったのは隠居してからだ。鷹山は隠居後も藩政を掌握し続けた。

上杉鷹山は当時としては長寿で70歳まで生きている。そして、米沢藩の財政が安定してからも上杉鷹山はその生涯を通して質素倹約を貫いた。

上杉鷹山が亡くなってからすぐに、彼が藩主になったころ最大まで膨れ上がっていた借金(現在換算で200億円と言われている)が完全に返済されたのだという。

鷹山の一代だけで破綻寸前の米沢藩を完全に立て直すことに成功したということだ。
しかも自分に子供がいたのにもかかわらず最終的に鷹山は上杉家を、だいぶ後に生まれた前代の重定(鷹山の養父)の実子に継がせている。

上杉鷹山はどこまでも「私」ではなく「公」に生きた人だった。人生のどこを切ってもまったく粗が見当たらない。こんなにカッコいい人はそうそういない。だから私は尊敬する人はだれかと聞かれたら、いつも胸を張って「上杉鷹山です」と答えている。

なお、暗殺されたアメリカの元大統領ジョン・F・ケネディは尊敬する日本人として「上杉鷹山」の名を挙げている。

まだ「民主主義」という概念がない時代に「権威のある者だけが富み、自分の家を存続させることだけを考えるのではなく、領民全員を豊かにすることこそが藩主の使命だ」と考えていた上杉鷹山を自由の国アメリカの大統領尊敬していたと聞いても。何ら違和感はない。

今回参考にした書籍


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